窪之坊の由来

(窪之坊)当山の開山かいさんは、日蓮聖人の本弟子ほんでし六老僧の一人、日持上人蓮華阿闍梨れんげあじゃり)なり。


 上人は駿河の人、日蓮聖人滅後14年1月元旦、日蓮聖人の宿願しゅくがんたる本化ほんげの妙法法華信仰ほっけしんこうを遠く漢土かんど(中国)月氏がっし(印度)にかへす使命を果たすべく、単身四十六才にして、故郷を後に路を北にとり、奧州・蝦夷ゑぞ(北海道)に至り、更に大陸に至ったと伝えらる。
没年未詳ぼつねんみしょうのため、宗門では上人の日本出発日即ち永仁えいにん三年(1295A.D)正月一日を以て御命日といたせり。

 おもうに、吾が国に佛教はふるく中国、朝鮮を経由けいゆして伝来せしもの、したがって、之を学びに海外におもむいた学僧はあれども、反対に日本から佛法を広めるべく海外に渡った僧は、日本佛教史上 日持上人をいては他にひとりも無き先駆けなり。
今日、日蓮宗門ではげて、日持上人を海外伝導でんどう鼻祖びそたたえる所以ゆえんなり。

 尚、当山には虚空蔵菩薩を祭つれり、日蓮聖人幼少の折12歳一生の誓願を立てられた逸話をはじめ寅年、丑年生れの守護神としても有名なり。

又、腰病守護の神として、日辰上人身延山42代を祭る。

住職 堀 一陽

窪之坊めぐり

日持上人の生涯

【海外布教の始祖】
 仏教は、従来、インド、中国、朝鮮半島を渡って伝来しましたが、日本の僧侶で仏教や経典を求める為に渡ったものは決して少なくありませんが、仏法を広めるために大陸に進出したのは、日本仏教史上日持上人を先駆者とします。

【日持上人(1250~)】
 日蓮上人の本弟子六老僧の一人甲斐公・蓮華阿闍梨と号す。静岡県本山蓮永寺開山
 その所伝は、概ね駿河庵原群松野の松野六郎左衛門の第2子として誕生し、幼名を松千代といい、幼少より志して和漢の典籍を読破し、文章・和歌にその才を発揮したとされる。

虚空蔵菩薩

日蓮聖人は幼少12才にして、千葉は清澄の山に登り、道善御坊<どうぜんごぼう>を師として出家の生活に精進しました。
 当時清澄寺せいちょうじは、安房あわ上總かずさ下總しもふさの三ヶごうたい總鎮守そうちんじゅとして有名でありました。
 而かも後に日蓮聖人が「日蓮をして日本第一の智者ちしゃたらしめ給え」と誓願せいがんあそばさしたる清澄寺のご本尊ほんぞん、虚空蔵菩薩はでんに依れば、光仁こうにん天皇の宝亀ほうき2年に不思議法師なる熱烈ねつれつなる修行者しゅぎょうしゃが此の山にこもり、修行中山中の老伯樹ろうはくじゅを切り、虚空蔵菩薩の佛体を彫刻ちょうこくして、山中のお堂に奉納ほうのうしました。
 後、仁明にんみょう天皇の承和しょうわ3年(836A.D.)比叡山ひえいざん慈覚じかく大師が東国遊化とうごくゆうげの際に来りて清澄寺の中興ちゅうこうを計りました。

 歴史移り替わって、昭和24年に眞言宗しんごんしゅう清澄山は大改宗の後、日蓮宗清澄山となり今日に至っております。

 当山の虚空蔵菩薩はって国宝にせられたる事もあり、そのお姿の荘重そうちょうさは、他に比類ひるい無く、智慧ちえ守護神しゅごじんとして或いは又、寅年丑年とらどしうしどし守護神しゅごじんとしても有名です。